近畿ESDセンターは、開設4年目となりました。近畿ESDセンターでは開設当初から、学校教員のESD推進を応援する拠点の取材に取り組んでいます。令和2年度は4つの拠点に対して、コロナ禍の状況に配慮した上で対面またはリモート等、拠点に可能な形で取材を実施することができました。
7月9日に神戸市にある、竹中大工道具館を訪問し、館長の西村章さんにお話をうかがいました。 2回に分けて掲載いたします。
竹中大工道具館を設立したのは、東京タワーやあべのハルカスなども手掛けた、創立120年を超える建設会社の竹中工務店です。当初は企業博物館として1984年に開設されましたが、現在は公益財団法人竹中大工道具館となり独立した運営がなされています。西村さんご自身も以前は、竹中工務店で建築設計を手掛けておられたそうです。
レポートその1では、竹中大工道具館が日本で唯一の大工道具の博物館として設立された経緯と、その素晴らしい展示物を中心にお伝えします。その2では、道具館が所蔵する豊富な大工道具や関連資料について、研修や学習など学校でのプログラムへの活かし方を中心に、元小学校教員の中澤(地域教材化コーディネーター・学習指導コミュニケーター)のコメントと共にご案内します。
【竹中大工道具館が生まれた理由】
戦後の復興により、日本の建築物は木造から鉄筋コンクリートやプレハブなどに取って代わったことで大工の仕事の需要は減り、工具も手道具から電動工具へと変わっていきます。それが顕著になった昭和の高度成長期、当時の竹中工務店社長の竹中錬一氏が、このままでは大工道具そのものが姿を消し、日本の素晴らしい木造建築技術の伝統も時代と共に忘れ去られてしまうのではないかと憂えたことが、大工道具館創設の発端です。
竹中氏は、古い時代の道具、優れた道具を収集・保存・展示することで、訪れる人々に日本古来の木造建築の長い歴史に思いを馳せてもらい、匠の技と心が後世に伝わっていくことを願ったそうです。しかし、1973(昭和48)年のオイルショックで竹中工務店自身も不況の波を被り、構想は一時中断します。やがて、世の中の状況が落ち着いた1980(昭和55)年になってようやく、会社の85周年記念事業として、大工道具博物館の創設を決定するに至りました。
その後、専門家や全国各地の大工さん・職人さんの協力を得て、5年がかりで1万点以上もの道具と関連資料を収集し、1984(昭和59)年に、竹中工務店ゆかりの地である神戸に、日本で唯一の大工道具の博物館がオープンするという運びになったそうです。
≪大工道具館は、2014年に新神戸駅近くに移転≫
館内は「歴史の旅へ」「道具と手仕事」「世界を巡る」「名工の輝き」「和の伝統美」「棟梁に学ぶ」「木を生かす」の7つのコーナーに分かれた展示がされています。
【歴史の旅へ】
では、沢山の展示の中から、いくつかをご紹介します。縄文時代から弥生時代にかけて、人々は石斧で木を伐採し、建物をつくったといいます。石斧で木を伐り倒すには、相当な労力と時間が必要だったと思われます。「歴史の旅へ」のコーナーには、復元された石斧と鉄製の斧が、それぞれにより伐り倒された原木と共に展示されています。石斧と鉄斧の性能を比較する伐採実験の映像を見ると、鉄斧は石斧の約4倍もの効率で木を伐り倒すことができるようになったことが分かります。石斧の切り口を見ると、刃物で切ったというよりも、砕いて引き裂いたような切り口に見え、石斧と鉄斧の道具としての働き方の違いが切り口にも見事に表れています。
学校では歴史の学習において、「竪穴式住居は地面を円形や方形に掘り窪め、その中に複数の柱を建てて・・」などと記されていますが、子どもたちは、柱に用いる木は既にどこかにあり、運んでくるイメージを抱くのではないでしょうか。あるいは木を伐るのもノコギリを使えば割と容易だと思ってしまうのではないでしょうか。ノコギリが登場するのはもっとずっと後のことです。大工道具の始まりともいえる石斧を使った木の伐採展示は、そのような概念に新たな気付きを与えてくれることでしょう。
また、木を製材する際は、木を叩き割る打割製材で、割板を釿(ちょうな)で削り落とす作業をしていたそうです。そこに中国から15世紀初め頃(室町時代)に伝わってきたのが二人挽きの大型縦挽鋸「大鋸(おが)」で、この新たな製材法を挽割製材といい、これによって生産効率が飛躍的に上昇したと言います。
この後、日本独自の一人挽きの製材用鋸が16世紀に登場し、近年に至るまで製材用縦挽鋸の主流となります。薄い板や細い角材なども容易につくれるようになった影響は建築様式にもあらわれ、柱と柱の間を襖や障子などの軽い引き違いの建具で仕切ることが普及していきました。。室町時代に書院造が用いられるようになったのも、これら大工道具の発明や発展があってこその流れだと知ることで、子どもたちは、日本の建築文化を支える職人の存在に気づくことができ、歴史・文化を多面的に捉えることができるのではないでしょうか。
【道具と手仕事】
ここで、まず目を見張ったのが、壁面にずらっと並んだ大工道具の数です。
これらすべての大工道具が、なんと一人の大工職人が持つ標準の道具だというから驚きです。「ここでは世界にも稀にみるような多様性と独自性を誇る日本の大工道具の、種類やしくみ・使い方を紹介します。」と解説にあるように、まさに、より良いものを作るためには、手間を惜しまない職人のこだわりと気迫が感じられます。道具はそれを扱う人の巧みな技により、その力を発揮します。
今、身の回りには工業製品があふれ、手仕事の素晴らしさを実感することが少ない日常ですが、館内では、時代ごとに人々の生活を支えてきた手仕事の様々な大工道具に触れることができ、道具を作る職人、道具を使う職人、それぞれの偉大さに引き込まれるような気がしました。
【棟梁に学ぶ】【木を生かす】
大工道具館でひときわ目を引くのが、地下2階から地下1階まで突き抜けて展示されている唐招提寺金堂組物です。国宝である唐招提寺金堂の柱や屋根の原寸大の復元模型で、高さは約7mもあります。ここでは、通常は近くで見ることのできない柱の上の複雑な組物を間近で見ることができます。
西村館長から、下から見上げるとこの木組みの見事さをまた違う角度からよく味わえると伺いましたが、柱で屋根を支える構図の見事さ、金属製の釘などをほとんど使わず木組みだけで主要な構造体を作ってしまうことに、まさに日本の木造建築の凄みを感じました。
では、千年以上も昔に、このように大掛かりで、しかも一寸のくるいもない繊細な仕事をやってのけた大工棟梁には、どの様な資質や能力が備わっていたのでしょうか。多くの大工職人たちを束ねて見事な建築物を作り上げていくには、鍛え抜かれた統率力がものを言います。その技と心は現代のものづくりや組織づくりにおいても学ぶところが多く、協働的行動力や多面的思考力、長期的思考力といった、持続可能な社会づくりにも通じる力なのではないでしょうか。
また、同じ種類の木でも環境が変われば性質にも微妙に違いが生じ、その性格の違いがやがて建物にくるいやひずみを生じさせることにもなると言います。単に建築材料の一つとして木を見るのではなくて、深い山の中で雨風にさらされて呼吸してきた生命ある木として用材を見きわめる必要があるそうです。木のクセや性質を生かし組み合わせて、はじめて何百年もの風雪に耐える建物をつくることになるというのですから、建築とは、一本の木に新たな命を吹き込むようなものだと感じました。
各コーナーを巡り、数多くの大工道具やみごとな作品から、大工職人たちの生き様に想いを馳せることができました。また、降水量の多さや梅雨時期の湿気、地震、台風、寒暖差といった日本の気候風土を背景に、独特の日本の建築文化が進化を遂げることができたのは、人々の生活に、自然を畏れ、敬い、自然を上手く利用するという考えが根付いていたのだと改めて実感することができました。持続可能な社会を考える上でも、自然と共に暮らすことはどういうことか、子どもたちと共に考えていくべき課題だと思います。竹中大工道具館の見学は、そのような学習への導入につなげることができると思います。
レポートその2では、道具館でできる木工体験や、所蔵する豊富な大工道具や関連資料について、研修や学習など学校でのプログラムの活かし方を中心に紹介します。
(中澤 地域教材化コーディネーター・学習指導コミュニケーター)